自分を逃がす勇気を持とう!
こんにちは。島牛です。
仕事に追い詰められている。
マジメなサラリーマンであれば、多かれ少なかれ一度は感じることではないでしょうか。
私も、マジメゆえにこれはよく感じることですね。
そして、仕事に追い詰められるのと同時に、次第に職場に居場所がなくなっていくような感覚になったことはありませんか?
仕事に対して前向きに取り組めなくなると、自然に仕事のパフォーマンスも落ちてきます。仕事の成果が上がらなくなると、やはり上からの評価、周りからの評価も下がっていくものです。
だいたい職場というのは成果でつながっている組織ですから、成果が上がらなくなった人間に対しての視線は冷ややかになってきます。
あることないこと噂をされるようになったり、またとないチャンスと思って普段からあなたのことをよく思っていない人があなたを貶めようと画策することもあるかもしれません。
そうすると、職場に居場所がなくなっていくのは当然のことですよね。
でも知っておいてもらいたいのは、それは決してあなたのせいではないということ。
あなたに何か欠陥があるからそうなっているのではないんです。
私は、それはむしろチャンスではないかと思っています。
仕事に追い詰められる感覚があって仕事がうまくいかないのは、何らかあなたとの相性があっていないことのサインです。
人付き合いでも、いくら仲良くしようと思ってもできない人が必ずいます。
その人に、「ねえ、私はこんなに頑張っているんだから仲良くなってよ!」と言えるわけもないですし、言う必要もありません。
相手に好かれようと自分を変に捻じ曲げる必要もないんです。
人間関係でも仕事でも、相性はとっても大事だと思います。
相性が合えば、うまくいっていなくてもモチベーションが思い切り下がるということはないと思うんです。
「うまくいかなかったけど、次はうまくいくように頑張ろう!」となるはず。
そこで「頑張ろう」と思えるかどうかは、何度も言うように仕事との相性だと思うんですよね。
(もちろん相性が合っていても気持ちが折れそうになることもあるので、全部とは言いませんが)
で、合っていない仕事、少なくともすでにやりがいを見出せずに心が疲弊してきている仕事に対して、自分の心を酷使し続けて合わせることに、果たしてどれだけの意味があるのでしょうか。
仕事を辞める?職場の周りのみんなに申し訳ないし、生活がもたないし、給料も下がるし・・・。
今の仕事に残ろうとする声はいくらでも自分の中から出てくると思います。
人間は基本的に変化を嫌う生物なので、それはある意味では当然の生理的反応です。
ただ、自分の心を消耗し続けることを選ぶのか、それとも変化を嫌う気持ちを少し脇に置いて環境を変えて自分の心を生かすことを選ぶのか。
私は圧倒的に後者の方が大切だと思います。
職場の周りの人に申し訳ない?
会社で周りに迷惑がかかるとはいえ、言っても数か月の話です。
「自分がいないと仕事が回らない」という事態は、会社ではそう起こるものではないのです。むしろ、誰かが1人抜けるだけで回らなくなる体制を組んでしまっている会社の方が問題なんです。あなたの問題では全くないんです。
生活がもたない?給料が下がる?
仮に転職をして給料が下がったとしても、心を酷使し続けて後々に心や体に大きな病気にかかったときの治療費を考えたら、どうってことないんです。
治療費だけならまだしも、それから心も体も使い物にならなくなってしまったら、その後の人生をどうしていくのか、いよいよ深刻な事態になってしまいます。
自分を逃がす勇気。ほんの少しでいいんです。大切なのはこれだけです。
逃げるんじゃない。積極的に、自分のためを思って自分を逃がしてやるんです。
「逃げるが勝ち」ではありませんが、立ち向かうよりも逃げた方が良い結果につながることは、人生の中でたくさんたくさんあるんです。
マジメな人ほど逃げることに罪悪感があると思います。私もまさにそうでした。
でも、命と天秤にかけて勝るような価値は、この世にはないんです。
自分を大切にできることは、一つの能力です。
今悩んでいる方がいたら、少し心の隅にとどめておいてください。
「ボロ雑巾になって捨てられる社畜たち」
こんにちは。島牛です。
少し前の記事ですが、ずっと心に残っているものです。
かつて私もブラック企業にいた身として、まったく他人事にできない話です。
大学を卒業してから最初に入った会社は、労働基準法というものの存在を知っているのかというぐらいに社員を酷使していました。
私も月に200時間以上の残業は当たり前でした。朝7時出社、夜11時に会社を出るのがデフォルトで、何か残業があれば夜12時を回ることも珍しくはありませんでした。
昼の休憩も取れたら取るというぐらいの話で、世のビジネスマンやOLがしているランチタイムなんて夢のまた夢でした。
週休は1日あれば良い方で、休日出勤があっても振替は当然のごとくない。
かと思えば突発的な出張が入り、一番きついときでは0泊3日の出張なんてのもありました。土曜夜まで仕事をした後夜行バスで関西へ行き日曜日に仕事、そのまま日曜夜に夜行バスで月曜日の朝に関東に帰って、シャワーを浴びてそのまま出社。
今から思えば、よくあんなスケジュールに耐えたなと自分で感心します。
ブラック企業というのは、一種のマインド・コントロールを行いながら社員を使っています。会社は社員がいないと成り立たないはずで、社員には会社を選ぶ権利があるはずなのに、いつの間にか会社はあたかもその社員の命運をすべて握っているかのように振る舞いはじめ、社員はその会社以外に選択肢は存在しないと思うようになる。
完全なる主従逆転です。
また記事に書かれている男性が患った「うつ病」も、いわば劣悪な環境から自分を逃がして生き永らえさせるための、本能的・心理的な回避行動であるはずなのに、それすらも認めない会社がいるとなると、完全なる奴隷の扱いです。
(私の前の会社などは、「うつ病」という概念すら否定しかねないぐらいに社員のメンタルを虐げ続けていました)
ひとの人生を狂わせながら会社は最後まで僕に何もしてくれなかった。これからの人生、どうしたらいいんでしょう。
この男性が言ったこの言葉はあまりに悲しいです。
私はギリギリうつ病を発症はしなかったものの、いつなってもおかしくない状況でした。まだ若かったこと、動くだけの体力があったこと、「ここで負けてたまるか」という意地があったこと、あらゆる要素が奇跡的にうつ病から私を守ってくれたのだと思います。
おそらく自覚されている方も中にはいると思いますが、このブログを見てくださっているマジメな方はとかくこの「うつ病」にかかりやすい性格を持っていると巷で言われています。
事実、私もドンピシャリで当てはまります。
几帳面、礼儀正しい、人に嘘をつけない、責任感が強い、忠誠心がある、献身的、適当にできない、ごまかせない、いつも考え込んでしまう・・・
これらのどの性格も、その人をうつ病たらしめるには十分な潜在性を持っています。
マジメな人ほど会社が無理難題を押し付けても期待に応えようとするし、その分自分に鞭を打とうとします。いつの間にか、本人が望むわけでもない「社畜」と化し、心無い会社によって「ボロ雑巾」になってしまう。
「うつ病」を「会社からの脱落」と同義語のように扱ってしまう風潮が、苦しんでいる人の苦しみを一層その人の中に押し込めてしまっているようにも思います。
誰かに打ち明けることさえできていれば違ったかも知れないことを、落伍者の烙印を自分自身に押してしまうように思えてどうしてもためらってしまう。
周りが心の病に対して理解を深めることはもちろんですが、自分で自分自身の心に対する理解を深めることも同様にとても大切です。
私も、かつての会社ほどの労働の過酷さはないものの、やはりこの「うつ病」の存在はいまだに遠いものではないなと感じます。
自分をあまりにもいびつな会社の型にはめ込もうとして自分を壊してしまうぐらいなら、自分からおさらばしてやったらいいんです。
自分を壊してまで得るほどの価値は、その会社にはないはずです。社員の心があげる命の悲鳴に耳を傾けない会社が生み出す社会的価値など、たかがしれています。
私もこの「会社」という構造自体に自分を合わせることにほとほと疲れがきています。
だからこそ、会社に頼らずに自分から価値を生産できるツール、また自分からお金を生み出せるツールとしてこのブログに着手しました。
自活できるようになるための道のりは、トンネルを金づちでコツコツ掘り進めるような道のりなのでしょうが、いつか見える光のためにこの努力は惜しまないつもりです。
今苦しんでいる人がいるなら、一緒に考えて歩んでいきたい。
無力な私ですが、切にそう願いながらこれからもブログを書き続けたいと思います。
悩みは、悩む力がある人の所に与えられる
こんにちは。島牛です。
悩みって、誰にでもありますよね。
特に、マジメな人にとっては悩みは波のように次から次へとやってくるんじゃないでしょうか。
悩まなくてもいいことをあれこれ悩んだりして、周りから
「なんでそんなことで悩んでんの?」
「もうちょい気楽にいこうよ」
「そんなに考え込むことでもないんじゃないの?」
なんて言われたことがある人、少なくないと思います。
私なんていつも言われますよ、ほんと。
それでも、悩みますよね。
「悩まないようにするにはどうしたらいいんだろう」って悩んだり。
何より私自身が何かあるたびに悩みまくる人間です。
さっきの周りから言われるセリフなんて、これまで何回言われてきたんだろうって思うぐらい、よくよく言われてきました。
これについては、色々な見方があると思います。
確かにあんまりにも悩みすぎると、そのうち心が病んできます。何のために悩んでいるのかが分からなくなったり、悩むこと自体が自己目的化してしまうと、せっかくのあなたの思考力が活かされなくなってしまいます。
でもちょっと見方を変えてみたら、これってすごい能力でもあると思うんです。
「悩みは、悩む能力がある人の所にしか与えられない。悩みがない人は、悩む能力がない人なんだから、心配するな」
学生時代にお世話になった先生が、あれこれ人生のことを悩んでいる私にかけてくださった言葉です。
この言葉には、とても救われたことをよく覚えています。そして今でも、何かあるたびにふと思い出す言葉です。
悩む人からすれば、悩まない人ってうらやましく見えますよね。
「あー、あの人は悩みがないのかな。いいよな」と。
でも、悩みがあるっていうことは、少なくとも「悩む能力」があるから悩んでいるんだと思うんです。
悩むっていうことは、悩みの種となることを認識する力があるということ。
他の人なら素通りしてしまうようなことに足を止めて考える力があるということ。
そしてその悩みを抱えながら生きていくだけの思考力、精神力があるということ。
だって、悩むのってエネルギーいりますよね。ものすごく頭も心も使うし、体のエネルギーも使う。そのエネルギーがなかったら、そもそも悩むことなんてできないはずなんです。
悩んでいるときって、何とか「悩みがない状態」に一刻も早く抜け出したくなるものです。苦しい状態から楽な状態に移行したいというのは、人間の本能みたいなものですから。「楽になりたい」っていうのは、本能的に当たり前のことです。
でも、一方で悩むことで見えてくることもあるはず。
本能が楽になる状態を求めているのに、それでも見過ごせないものに対して悩み続ける能力って、私は評価してもいいんじゃないかと思っています。
で、同じ悩みをずーっと悩み続けているうちに、何かに気付いて知らないうちに抜け出していたという経験をした人もたくさんいると思います。
天気も同じですが、ずーっと雨が降り続くことはないんです。雨が降る日もあれば晴れる日もある。そういうもんです。
私は、悩みは「神様から与えてもらった贈り物」だと思うようにしています。悩む力があるから自分に与えられたものなんだと。そしてその悩みから逃げずに向き合い続けたときに何かの道を示してくれるものなんだと。
だから、悩みがあるときは思いっきり悩んでみてはどうでしょうか。
だって、悩む力があるから与えられているものを避けてしまうのは、逆にもったいない。
悩むべきときにしっかり悩んでいれば、いつかその悩んだことがあなたに力を与えてくれるはずですから。
いつものごとく、少しマジメになってみました。