「ただの安酒」の価値
いきなりですけど、お酒っていいですよね。
お酒飲めない方はごめんなさい。
でも本当にお酒が好きなんです、私。
ビールから日本酒・ワイン・ウォッカ・バーボン・ジン...オールマイティに全て好きですね。
だからこそいいお酒を置いている行きつけの飲み屋にはよく行ってます。
今回はそこで出会った、初老の男性のお話です。
その日、新しく入荷された日本酒の知らせを若手のバイトの子から受けて、行きつけの店に行きました。
日本酒を頼んで隣を見ると、熱燗を1人で楽しむ男性が。
年は60歳手前という所でしょうか、少し背中に哀愁を感じる方でした。
飲んでらっしゃるのは、「白鶴」の熱燗。
「白鶴」と言えば、お酒を知らない人でも大体名前は聞いたことがあるのではないでしょうか。
お酒メーカーとしては国内最大手で、いわば「日本中どこでも出会えるお酒」です。
「白鶴、飲んでらっしゃるんですね」
「ええ。私みたいなのにはこれぐらいの酒が合うんですよ」
そこから会話が始まり、いつものごとく飲み屋の人生談義のスタートです。
「お好きなんですか?」
「そうですねえ...好きというよりも、この味を体が覚えてるんですよ。逆に、今流行ってる日本中の地酒なんかは、お酒が良すぎて私にはあんまり美味しさが分からないんですよねぇ...」
私のような年下の人間にも、丁寧に話してくださる、物腰の落ち着いた方でした。
日本独自の文化として昔から根付いてきた日本酒ですが、ここ50年で大きな変遷を遂げています。
いわゆる大手の酒メーカーが作った「白鶴」や「菊正宗」などの全国酒が世の中を席巻した1960-70年代。
そこから、日本の好景気と連動するように「本物志向」が少しずつ芽生え始め、1980年代には全国の酒蔵が自前で作る希少価値の高い地酒が注目を浴び、1990年代にはより上質な「吟醸酒」が登場。
2000年代に入ると、従来の型に捉われない若い蔵元が作るオリジナリティの高い日本酒が登場するなど、日本酒をめぐってブームもめざましく変わってきたのがこの50年です。
この方の「味を体が覚えている」というのは、この全国酒が主流だった1970年代頃のことを話しておられたんですね。
その男性はこう続けました。
「若い頃は、自分の給料でお酒が飲めることも自体、本当に贅沢だったんです。その時の思い出が自分でも忘れられないんですかね、その頃に飲んだこの安酒を、気がついたら今でも飲んじゃうんですよ」
お酒に向き合いながら、アルバムをめくるようにご自身の若かりし頃を思い出していたのかも知れません。
私なんかはお酒にはまり出したのがこの1-2年で、日本酒業界が成熟し切った頃に日本酒に出会ったので、地酒が当たり前のようにスーパーに並んでいることも、希少価値の高い日本酒が居酒屋で飲めることもごく普通でした。
ただ悪いことに、最近の上質な日本酒に慣れた世代の中には、コンビニで売っている「白鶴」などを「味の悪い安酒」だとバカにしている人も少なくありません。
確かに、品質やプレミア価値においては、「白鶴」は全国の地酒には遠く及ばない存在でしょう。
多くの地酒に触れ、多くの高品質なお酒に出会えることによって、以前に比べて各段にお酒好きの人たちの舌は肥えているのは事実です。
良いお酒の品質を知る人が増えている。そのことは日本酒業界にとってもより良い酒を生み出すための原動力となるでしょうし、日本酒業界にとっては必要な変化だったのでしょう。
ただ、
「××県の〇〇という銘柄は~」「ここの酒蔵はすごくおいしくて~」
そんな会話をすることが、日本酒好きであることの証左であるかのように振る舞う「自称日本酒通」をたくさん生み出してしまったのも、この日本酒ブームの弊害なのかも知れないと、最近思う次第です。
この男性が安酒の「白鶴」の熱燗に見出す価値を、どれだけ地酒ブームが当たり前になった私たちの世代が分かっているのだろうか。
そう思い、私はこう伝えました。
「確かに地酒の種類も、おいしいお酒の味も、私の方がよく知っているのかも知れません。でも、あなたがこの『白鶴』の熱燗に感じている想いは、私たちの世代には分かりえないんだと思っています。その意味で、私はまだまだお酒の味を知らない青二才です」
何を言えばいいのか分からずとっさに出てきた言葉でしたが、それを聞いて静かに笑ってくださった男性の姿は、私にはとても心に残るものでした。
それから、せっかくなのでおちょこに一杯「白鶴」を分けていただきました。
いつもなら安酒だと言って気にも留めないこの一杯が、そのときは何とも味わい深く思えた瞬間でした。
それから会話が進み、その男性も逆に私が進める地酒を飲んでくださいました。
「そうか、これが美味しい地酒なんですね...」
複雑な表情を浮かべながらも、一口一口、静かに味わっておられました。
その方なりに、世代を越えて私たちの思う所を汲み取ろうとしてくださったのだと思います。
日本酒を通じてこうして世代を越えたコミュニケーションができるんだなと、自分が酒好きであることに感謝した夜でした。
こういうことがあるから、飲み屋の1人飲みはなかなか止められませんね!
決断すべきタイミング
何かの決断をしないといけないとき。
人それぞれに、それぞれのシチュエーションで、ときに大きな決断を迫られることがあります。
もしくは、自分から大きな決断をしようと決心することもありますね。
「就学・就職・結婚が人生の三大イベント」なんて言われることもあります。
どう考えるかはその人次第ですが、自ずとこの3つに関わる決断は人生においてとても大きなウェイトを占めるのではないかと思います。
要するに「どこで学ぶか」「どこで働くか」「誰と結婚するか」ということです。
私はまだ3つ目は経験してませんが(独身貴族なので笑)、1つ目と2つ目についてはかなり大きな決断をこれまでしてきました。
そして、今日お伝えしたいことは私が1つ目の決断をしようとしたときのお話です。
私は小学校は地元の普通の公立、中高は親の勧めで父の母校である中高一貫の私立進学校に進みました。
ここまではよくある話ですね。
ただ、ここから私は、高校まで進んだ後に自分から学校を離れる決断をしました。
これは、誰かにそうしろと言われたのでもなく、完全に自分の意思です。
「辞めたいと思ったから辞めた」、ただそれだけの話です。
当時からマジメくんだった私は、小学校のときにがんばって遊ぶ時間を削って受験勉強に明け暮れてまで入ったこの学校に、とてもとても失望していました。
確かに周りの子たちはよく勉強はできましたが、あまりにモラルが低すぎたのです。
特にいじめられたのでもなければ、成績が悪かったわけでもない。友達も普通にいましたし、部活も充実していました。
まあ、普通に学校に通う大多数の同級生からすれば「そんなこと、べつに普通じゃん」と言われそうなことだったのかもしれませんが、当時の私にとっては、次第に「こんな所にこれ以上いれない」と思うほどにストレスを感じ、心をすり減らしていました。
(具体的になにがあったのか、というのはまた別の機会で書きます)
心をすり減らしていく中で、次第に親にも学校を辞めたいということをほのめかすようになりました。
そのうち足も学校に向かなくなり、欠席も増える一方。
そんな状況を見かねたのでしょう、ある日学校から電話があり、なんと校長先生と私と母とで三者面談をすることになりました。
母は疲れ果てた私を連れて学校に向かい、静かに校長室に入りました。
私の通っていた学校はキリスト教のカトリック系だったので、当時の校長先生は神父さんでした。
学校に通っていたときに一度クラスを持ってもらった、恰幅の良い威厳のある神父さんです。
学校をとことん嫌った私でしたが、不思議とその校長先生には拒絶感はなかったことは覚えています。
静かな校長室の中で、困り果てた母が私の現状を話すものの、私はただうなだれるだけ。
母が話す間、校長先生は母の気持ちをたしなめながらじっと話を聞いていました。
そして一通り話を聞いた後、校長先生が静かに口を開き、私に向けてこう言われました。
「調子が悪いとき、気持ちが沈み込んでいるときに、大きな決断はしてはいけないよ。大きな決断は、調子が良いときにしなさい」
「学校に来なさい」とも「無理して学校に来なくても良い」でもなく、校長先生からわたしに向けられた言葉はそのひと言でした。
私が何を考えているか、大方見透かされていたのでしょう。その上で、このひと言を言われたのだと思います。
結局、そのときは学校を辞めることはなくがんばって一度復学しました。まあ、ゆくゆくは2年後ぐらいに辞めることになるんですけどね。
この言葉は、社会人となった今でもずっと心の底に残って、何かの岐路に立たされたときに決まって心の中に浮かび上がってきます。
調子が悪いときに衝動的に下す決断が、後になって振り返ったときに後悔することにしかならないことを、校長先生は自身の人生の中で知っていたのかもしれません。
学校を辞める。会社を辞める。パートナーと別れる。
こうした「離れる」決断には、「どこに入学する」「どこに就職する」「誰と結婚する」という「くっつく」決断よりも数倍、数十倍のエネルギーを使いますし、その分重みも増します。
「離れる」決断をするときって、「現状が嫌だから、とりあえずこの状況から抜け出せたら良い結果が待っているに違いない」と、調子が悪いときほど思いがちなんですね。
言うなれば、冷静な思考というよりも、「危険を回避したい」という原始的な反応から来る場合が多いようにも思います。
(もちろん、何か前向きなことにチャレンジしていくときは後先考えずにまず行動してみることが一番ですけどね)
でも、離れた後に何が待っているのかをよくよく考えもせず、勢いで離れてしまった後に後悔する羽目になった人はごまんといるはずです。
私も結局は学校を辞めることになりましたが、一度復学する努力をして考える時間を得た上で、納得して学校を去りました。
これが勢い任せの決断であったなら、その後にどれほど後悔していたか分かりません。
時間は一方向にしか進みませんから、後悔したときにはもう後戻りはできなくなっている、というのがこの世の常なのだと思います。
調子が悪いときは、ずっとは続きません。たいてい、どこかで思わぬタイミングで晴れ間がのぞくこともあるものです。
晴れ間がのぞいて調子が良くなってきたとき、きちんと冷静に考えた上で変わらぬ決断をするのなら、何も問題はありません。
ただ、調子が良くなったら考えが変わるようなことがあるのであれば、いったんその「大きな決断」は引っ込めておいても良いのかもしれませんね。
それは、「誰か」があなたに「今はその決断をするタイミングではない」ことを伝えようとしているのだと、考えてみてはいかがでしょうか。
あるおじい様のお話
先日の週末、行きつけの焼き鳥屋のカウンターでいつものように飲んでいたときのこと。
私は1人で飲んではカウンターの隣にいる人といつの間にか仲良くなっていろんな人生談義をするのが楽しみの一つです。
その日は、隣に40-50代ぐらいのご夫婦がいらっしゃいました。
ご夫婦でお酒を楽しまれているところでいきなり話しかけるのもなぁ・・・と思いつつも、私が好きな日本酒を飲まれていたので、そのことを話題にして会話を始めました。
北海道出身の奥さんと山梨県出身の旦那さん。
お互いに上京した頃に知り合ったということで、それぞれの地方のあるある話で盛り上がりました。
結局、ちょっと飲むつもりが4時間ぐらい一緒に飲んで、最後はお互いに酔っ払いながら太宰治がどうだのという文学談義を夜中までしていましたね笑。
お会計をしたところまでは覚えているのですが、どうやってそのご夫婦と別れたかはあんまり思い出せず、結局お名前も聞かずじまいでした。
まあでも、こういう一期一会があるのは本当に楽しいなと思います。
そのときに聞いた、旦那さんのおじい様のお話がとても印象に残ったので、少しおすそわけです。
飲み始めて2時間ぐらい経った頃でしょうか、おもむろに旦那さんがおじい様のことを話し始めました。
「いつも何を考えてるんだか、結局死ぬまでじいさんのことはあんまり分からずじまいだったけど、今でもずーっと忘れられねえんだよなあ」
と言いながら、トツトツと旦那さんが語り始めました。
山梨の大地主の家に生まれたおじい様は、第二次世界大戦時に南西諸島に陸軍兵として渡られたそうです。
(どの島に渡ったかまでは分からないそうです)
南西諸島と言えば、陸軍が無謀な進軍をしたがために兵士の大半が命を落とす羽目になった、日本の戦争史においても悲惨を極める戦地の一つでした。
結局、戦争が終わってその軍隊の中で生き残って日本に帰ってきたのは、たったの3人しかいなかったそうで、おじい様はその中の1人でした。
とても貴重な生き残り兵ということで、後々は天皇陛下から勲章をいただくほどだったそうですが、帰国した当初は「恥さらし」と周囲から相当な批判も浴びたのではないか、と話していました。
孫であるその旦那さんがおじい様と一緒に過ごした時間は、そんなに長くなかったようです。
自分の戦争体験については、いくら聞かれても一切答えようとしなかったそうです。
そんなある日、おじい様が長年連れ添ってきた奥様が亡くなられてしまいました。
それからというもの、おじい様はぴたりと食事をすることを止めてしまったのだそうです。
「そんなにショックだったのかねえ・・・少なくとも俺からは、そんなにばあさんのことを想っているようには見えなかったけど、内心では何を思ってたんだろうって、今も分からずじまいだよ」
どれだけ息子や孫が言っても、それからおじい様が亡くなられるまでは本当に食事は取らなかった。
そして、翌年のおばあ様の命日、まさにその日におじい様も静かに息を引き取ったのだそうです。
「偶然なのかどうかは分からねえけど、狙って同じ日に死ねるもんじゃねえよな。一切言葉とか態度には出さなかったけど、やっぱりばあさんのことは本当に好きだったんだろうな。今頃あの世で何してんだろうな、あの夫婦」
悲しむわけでもなく、懐かしむように、愛おしむようにタバコと日本酒を静かに楽しむ旦那さんからは、私みたいな30そこそこの人間には出せない人生の深みを感じました。
今となっては確かめる術もないこと。
そのおじい様の死に際が、何か後世に確たる意味を残したのかどうかも分かりません。
山梨のいなかの、偉人でも何でもない普通の人であっただけです。
ただ、私にはそうしたおじい様の話を聞くうちに、何かが心に沁みていく感覚がありました。
その生き様がどうだったとか、あれはこうだったんじゃないかと詮索をするのは、何やら無粋な気すらしてしまいました。
語れない歴史をあまりに持ち過ぎたがゆえに、次第にそのことについて口を開くこともしなくなり、ただただ自分の内にのみその歴史を抱えて静かに生きてこられたのでしょう。
そんな方が誰にも言わずに秘めて守り続けた美徳(と言ってしまっては味気ないですが)は、他の誰もとやかく言えるものではないと思いました。
ただただ、おじい様の人生をそのまま味わっていたいひと時でした。
私は基本的に、私よりは年が一回りか二回りぐらい上の方と一緒に飲むのが大好きです。
私にはまだ知りえない人生の深みを先輩からこうして聞かせてもらえることなんて、何にも勝る人生勉強じゃないですか。
また、週末の夜は街の居酒屋に消えていくことにします。