東京都議選・・・アホちゃうかホンマに・・・
先日行われた東京都議選。
結果は見ての通り、都民ファーストの圧勝、自民の大敗。
その陰でこっそり公明共産が票を伸ばし、民進は相変わらずの落ち込みでしたよね。
メディアでは「自民のオウンゴール」みたいなことがしきりに言われてますね。
「このハゲー!」さんがいたり、「自衛隊も応援します」さんがいたり。
一方で、もはや今となっては国民のうちの何人がことの真相を理解しているのかすら分からない「森友学園」「加計学園」問題。
そんなこんなで、自民は墓穴を掘ったらしいです。偉い偉いメディアさんたちによると。
しかしながら、どうにも解せぬこの切り口。
「自分らアホちゃうか」と言いたくなる、今日はそんなお題です。
神戸出身の私としては、こんな出来レース&論点ズレまくりでもはや健全な選挙の体をなしていないエセ自治体選挙よりも、同日投票の兵庫県知事選によっぽど関心がありました。この日だけ、住民票を神戸に戻して知事選に投票したいと何度思ったことかしれません。
とは言えそんなことも言ってられないので、1,300万分の1の東京都民として票は投じましたけどね。
さてさて、この都議選の問題点についてはもう一部ローカル&ウェブのメディア(自民バッシングしか能のない大手メディアは置いといて)ではコメンテーターが十分に苦言を呈しているところですが、私も一度整理はしておきたいと思います。
なぜこの都議選がおかしかったのか。曰く・・・
①候補者が誰も東京都の政策のことを話してない
②報道に全く公平性がない
③第一党になった「都民ファースト」がもはや都民のことなんて考えてない
といった所が主なポイントではなかろうかと。
①候補者が誰も東京都の政策のことを話してない
これ、私の住んでいる区の選挙区や、他の選挙区のマニフェストを色々と見ていましたけど、あまりの論点のズレに苦笑するしかありませんでした。
目下最大の争点となっている豊洲移転についても、誰も具体的なこれからのスケジュールや予算について言及なし。
豊洲問題やオリンピック問題と関連した「環状2号線ってこのままじゃオリンピック間に合わないよね問題」も誰1人話もしていない。
それを棚上げしておいて書いているマニフェストと言えば、
「高齢者も安心して住める街づくり」「安心して子育てできる社会」「若者が安心して教育を受けられる東京都に」
なんていう、はっきり言ってそこいらの中学生が3分もあれば書き上げられる稚拙で使い古されまくっているお決まり文句のみ。
かと思えば一方では「共謀罪反対!」「アベを潰せ!」なんていう、論拠のない体制批判だけを謳った、あからさまなそちら系の候補者たち。
頼むから、誰かまともなこと言って立候補してくれよ、と嘆きたくもなるものです。
私の選挙区で某巨大政党が擁立した元歯科医?の候補者が
「私のこれまでの経験を活かして都政を改革していきます」
なんて書いてあったのは、爆笑ものでしたね。
「いやお前、歯並びと虫歯治すだけかい!」と(笑)。
選挙区をいくらか見ましたが、一番まともに政策を述べようとしているのは、無所属だったりほとんど組織的な後ろ盾がない小さい政党の候補者ばかり。(ちなみに私はその無所属の方にせめてもの一票を投じました)
結局、まともなこと言っても相手にされないんですよね。
次にも書くメディアの偏向報道とも関わりますが、メディアは面白くないまともな政治論より、視聴率が稼げて国民(愚民?)受けする「このハゲー!」の音声の方をガンガン取り上げます。
だって、そっちの方が見てて面白いから。
もしくは、国政と論点をごちゃまぜにして、国政の政党間の抗争をそのまま都議選で行うというパターン。
「このハゲー!」は、東京都とは関係ないじゃないですか。
あの議員さんの人間性がどうとか、そういうのは自治体としての東京都の政治には全く何の関係もないはず。
それでも、「このハゲー!」音声によって、「うわー自民党最低ー」「あんな奴いるところ応援したくないよねー」といとも簡単に都民(愚民?)は思ってしまうんです。
「森友学園」や「加計学園」に関しても、東京都の都政と何の関係があるんですか。
百歩譲って、メディアが報道している通りに自民党が悪かったとしましょうよ。
それが何で都政のイメージ操作に使われにゃならんのですか。
「森友学園!加計学園!」→「うわー安倍サイテー」→「自民党サイテー」→「なら小池さんかなー」
ぐらいの4コマ漫画バリの単純思考で、一体どれだけの票が動いたことか。
(「百歩譲って」とは書いたものの、この2つの学園問題はどれだけほじくろうと安倍政権の足元をすくうような証拠は何一つ出ないでしょうね。タイムラインに沿って事の推移を見ていけば、「問題になるような証拠はない」という結論しか出ないでしょうから)
日常に忙殺されて身の回りのこと考えるので精いっぱいで、自分を取り巻く政治環境に対する関心も思考力もろくすっぽない都民にとっては、あれぐらい刺激的で分かりやすい報道があれば、投票先なんてコロッと変えられてしまうんですよね。
「自民党のオウンゴール」とかコメンテーターがキー局で深刻そうにのたまわってますが、そもそも国政と都政はフィールドが違うんですって。。。
(まあ、さすがに「自衛隊も応援してます」大臣はやらかした感は否めないですけど)
自治体の議員を選ぶ選挙で、なんでその自治体のことを論じていない人が当選してしまうのか。
立候補する方もする方ですし、選ぶ方も選ぶ方ですよね。。。
日々の生活を本当にどうにかしようと思っているなら何とか考えて最善の候補を選ぼうともするでしょうが、結局は「都民がそれほど困っていない」ということも大きな要因なのかも知れませんね。
②報道に全く公平性がない
これは①とも大きく関わる所ではありますね。
今回の都議選、構図としてメディアが出したのは
「自民 VS 都民ファースト 小池政党は安倍自民を切り崩せるか!?」
みたいな感じでしたよね。
いやいやいや・・・ちょっと待とうよ・・・他の政党、どこ行ったの?
他にも政党あるよね・・・?
なんかもう、メディア上では存在すらしてないのではないかと思われるほど、触れられていなかった他の政党たち。
生活なんちゃらの党は直前になって都民ファーストが協力関係に入るということで、都民ファーストの流れで少しテレビに映りましたかね。
あと公明、民進、(あと共産?)ぐらいはまだ有名野党としてメディア報道のおこぼれは預かっていましたけど、他の小さな政党、無所属の人なんて、投票所に行って初めて存在を知った人も多くいるのではないかと。
これは前の都知事選のときにも言われていたことで、あのときは他の候補者が「あまりにメディア(というかテレビ)で取り上げられている時間数に差がありすぎる!」と言って意見書を提出されていましたよね。
小池、増田、鳥越の3候補しかメディアは取り上げず、他の候補者はNHKのテレビ演説ぐらいでしか日の目を見なかったと。
ごもっともだと思います。
結局は、メディアは全て「視聴率(発行部数)が取れるかどうか」で動きます。
もっと突っ込めば、大衆受けするかどうかです。
①でも言った通り、いかに国民が面白がる「選挙ドラマ」の脚本を作って報道できるかがメディアの腕の見せ所であり、各候補者を平等に扱ってそれぞれの主張を忠実に報道することなんてこれっぽっちも考えてはいないんだろうな、と都議選を見てても思いました。
小池氏の都民ファーストが自民党を「ジャイアント・キリング」する構造というのは、例えば高校野球で弱小校が強豪校に立ち向かっていったり、オリンピックのリレーで日本代表が世界最強のジャマイカやアメリカに立ち向かっていくのと同じで、国民のワクワク感を駆り立てるものがあったのでしょう。
「弱者が強者を打ち負かす」というのは、いつの時代にも共通して人々が心を重ねて痛快に感じるストーリーですからね。
でも、それを選挙の場でしなくてもいいでしょ。
高校野球やオリンピック応援するのと、選挙を同列に並べるのはいかがなものか。
しかも、本当にジャイアント・キリングさせたいなら、もっと弱い候補者いっぱいいるじゃん。。。
選挙の報道に公平性なんてもはや求められていません。
国民が興奮するドラマ仕立てにしやすい構図をいかにして切り取り、ドラマタイズしていくか。それだけです。
候補者の情報を生で受け取ることができる機会はほとんどなく、おおよその情報はメディアによって二次的で鮮度の落ちたものになってしまいます。
だから、私は選挙期間中のキー局の報道はまともに見ませんし、できる限り候補者や政党からの一次情報を大切にしたいなと思っています。
③第一党になった「都民ファースト」がもはや都民のことなんて考えてない
これね・・・もはや都民ファーストではないよねっていう話。
もう皆さんご存知のことと思いますが、小池氏は都民ファーストの代表を辞めてますよね。
あれだけ選挙中に「わたくし、都民ファースト代表の小池百合子でございます」のスピーチをしておいて。
「小池さんが代表なんだったら」という思いで投票してくれた何百万の都民を差し置いて。
都民ファースト擁立の候補者のマニフェストにもご丁寧に推薦の言葉とサインを添えていたにもかかわらず。
選挙で圧勝したらあっさり辞任。
表向きには「都知事が地方政党の代表を兼任することに配慮して」云々とは言われていますが、とどのつまり、もう関心がないんでしょうね。
もう、なんのこっちゃです。
もう都議選は過去のことなんでよね、彼女の中では。
「豊洲は汚染されています!」って公言した手前、都政を圧迫しない最善の方法はできるだけ早く築地市場を移転させることだという客観的なデータが出てきたにもかかわらず、築地の方が豊洲よりもよっぽど汚染されているというデータが出てきたにもかかわらず、だらだらと結論出すのを先延ばしにしたのは、彼女です。
でもって、都議選前に突然移転を発表し、でも築地残留派の票が流出するのが嫌だから、築地残留派の生活なんちゃら(すみません、本当に関心がないので名前が出てきません・・・)と組むための「築地に食のテーマパークを」みたいな滑稽な案をいきなり掲げたのも、彼女です。
都民のおいてけぼり感、ハンパないですよね。
知事に当選したときに言っていた、都民が一番だというあのポリシーは一体どこに行ってしまったのやら。
まあ、最初からそんなものは無かったのだなと今になって気づいても、後の祭りとはこのことです。
かつての知事選で、彼女のイメージ戦略が抜群に上手かったからとは言え、彼女のジャイアント・キリングを応援してしまったことが今になって悔やまれる次第です。
これからも、この東京という都市はメディアによってきらびやかに飾り立てられ、日本中から人を吸い込んで膨れ上がっていくのでしょう。
そこでもたらされる税収、落とされるお金は、やはりこうした無益な政治をしている輩に消費されていくのでしょう。
そうして膨張し続けた風船がはじけて自壊し始めるころには、今の都政を牛耳って税収の恩恵を授かっているお偉いさんたちはいなくなっているのでしょう。
元々この都市に特に愛着はありませんでしたが、今回の都議選でほとほと幻滅しましたし、気持ちは完全に離れましたね。
ここは自分が根をおろす場所にはなり得ないと、確信しました。
人一人が動いてどうなるわけでもないでしょうが、同じお金を落とすのであれば、自分が生まれ育った関西の肥やしにしたいなぁとつくづく思いますね。
これから先、私がどうした身の振り方をするのかは分かりませんが。。
以上!
「表現したい」という衝動はどこから生まれるのか その2
前回の続きです。
精神的に安定すればするほど、心理的欠乏状態を脱すればするほど、なぜだか「想いを文字に表したい」「書きたい」という衝動が減っていったというお話。
自分の中にこういう変化が表れてみると、実はこの世界の色々なことに似たような相関性があるんじゃないかと思うようになりました。
例えば、文学作品。
かつての文壇を彩り、今なお不朽の名作として読み継がれている作品を生み出した文豪たちは、全員とは言わないまでも相当な人々が最期に自ら死を選んでいます。
この世の中で生きる上で解消され得ない不条理さ、生きづらさを内包しながら、時には病に伏しながら、原稿用紙の上に文字を並べていった末に、その文豪たちの「魂の結晶」とも言うべき芸術作品が生まれていたように思います。
もちろん、単純に「文学者は不幸な方がいい」と言いたいわけではありません。
現に、現代でも作家として満たされた生活を送りながら作品を生み出し続けている方もたくさんおられます。
ただ、一昔前、明治から昭和初期にかけて何かに突き動かされるように作品を生み出し続けた文豪たちが、ぬくぬくと平和な日々を過ごしていたようには思えません。
作品によっては、その文豪の魂が飢餓状態に陥っているかのような鬼気迫る「言葉の圧」を感じるほどです。
音楽にしてもそうです。
例として挙げるのが良いかは分かりませんが、1980年代に時代を席巻した尾崎豊。
不条理に満ち満ちた現代社会に生きるいち若者として、世間に対する魂の叫びを音律に乗せて世に問うたとき、やがては熱狂的なファンに神格化されるほどのスターになっていきました。
自分の精神や肉体を削ぎ落しながらも音楽を生み出し続けた彼は、彼ほどではなかったとしても、何となくこの世の中にやり切れなさを感じる若者にとっては、「内なる声の代弁者」足り得たのでしょう。
ただ、その彼が平和な日々を送っていたとは到底思えない。
彼の最期がどうであったかを思い返せば、想像するのはそう難くないはずです。
ある音楽評論家に言わせると、「彼の不幸を一番望んでいたのは彼を取り巻いていた熱狂的信者だったに違いない」と。
かつての熱狂的ファンにとって、尾崎豊はいつもボロボロでなければならなかった。
そうでなければ、私たちの魂に響く音楽を生み出す尾崎豊たり得ないから。
彼には、社会との不協和音を生み出し続ける存在でいてほしい。その願望の究極の形として、崇拝の対象である尾崎豊の悲劇的な死を心の奥底で望んでいたのは他ならぬファンだったのではないか、という分析です。
当時「確かにその通りだよな」ととても腑に落ちたのを覚えています。
話が少し逸れましたが、突き詰めれば、音楽であれ文学であれ絵画であれ何であれ、「作品を生み出す」ということはその作り手の魂次元での欠乏感と密接にリンクすることなんだなと思いました。
今の私と比べられるような次元ではないことは百も承知ですが、ささやかな自分の個別体験を演繹的に広げて考えていったときに、そういった視点も得られたような気がします。
まあ、とは言っても、書くのがメンドくさいから書かなかった、というのも否めないところです。
またこうして再開しましたので、日々感じたことをまたつらつらと書いていきます。
さてさて、どこまで続くことやら・・・。
「表現したい」という衝動はどこから生まれるのか その1
なんだかんだで3週間ぶりの投稿です。
ブログを立ち上げたのが3月中旬ごろ、それから立ち上げの勢いもあって1日3記事ぐらい書いていたこともありましたが、3週間前ぐらいからピタリと止めてしまっていました。
まあ、いわゆる「三日坊主」感は否めないなと自分でも思いますし、端から見ても「最初は物珍しさで書いてたけど、飽きちゃったんでしょ」と言われても仕方なしな所はあります。
ただ、自分なりにこの休止期間を振り返ってみたときに、「なぜ急にブログ更新を止めてしまったか」という理由について、けっこう腑に落ちたメカニズムを発見しました。
元々ブログを立ち上げたときは、はっきり言って仕事がうまくいっておらず、思い悩んでいたときでした。
職場での人間関係しかり、今後の自分のキャリア構築しかり。そういった取っ掛かりとなる悩みを起点にして、自分の心の中にある暗部に芋づる式にスイッチが入り、まさに悩みの蟻地獄にはまり込むような感覚を覚えたものです。
仕事や生活がそれなりに順調に進んでいるときは、自分で自分に抱く期待を日ごろの生活の中で満たせている・果たせているときなのではないかと思います。
言うなれば、自分で自分に抱いているイメージと、他人が自分に抱いているイメージにあまりズレがない状態です。
「自分で自分に対して納得しているし、相応に周りの人も自分を認めてくれている」という、精神的にも満たされている所を指すのではないかと。その好循環が更なる良いサイクルを生み出すので、まさに「順風満帆」とも言うべき状態ではないでしょうか。
ただ、その好循環が何かの拍子に逆流し始めるとさあ大変です。
おそらくなんでもマジメに考える人は経験があるかと思いますが、一度思い悩み始めると、普段は外側に向いているエネルギーが内側に向かい始めるんですね。
私の場合は、
職場での人間関係に不具合が生じる
→人間関係が気になって仕事のパフォーマンスが下がりだす
→当然ながらミスも増え、周りの職場の人からの信頼も下がりだす
→自信を失い、自己否定感だけが増す
→「何とかしないと」と思いながらも根本的な原因は解決されず、気持ちだけが空回り
→さらに仕事のパフォーマンスが下がる
・・・
という「心のデフレ・スパイラル」に見事にはまっていました。
そして、心がデフレ状態だとだいたい体もリンクしてデフレ状態に陥るんですね。
心身ともに疲弊していたように思います。
これは心理学的にも証明されていることのようですが、普段外に向けて発していた心のエネルギーが内側に逆流しだすと、途端に自分の内面をも蝕み始めます。
こうなると、心の中での不協和音が日に日に大きくなり、自分でもどう処理していいかだんだんと分からなくなってくるんですね。
そこで、私が自分を救うための「心の逃げ道」として思いついたのがブログでした。
悩みに比例して膨れ上がる「心の言葉」を吐き出す場所がないと、当時は精神的にもちそうにありませんでした。
こういう表現が適切かは分かりませんが、とめどなく生まれる言葉を吐き出す場所がないと、「言葉の便秘」状態になるんですね。
なので、その「便秘」状態を解消すべく、ブログの上で言葉を吐き出すという試みを始めたわけです。
最初の十日間ぐらいは、それはそれは言葉がじゃんじゃん出てきました。
ブログを1日3本書いても足りないぐらい、「書きたい衝動」に駆られていたんですね。
もちろん不特定多数の読者を意識した語調にしたつもりですが、何よりそのときの一番の動機は「自分を励ますため」でした。
「自分のような読者」を想定しながらも、内実は今の自分が一番欲している言葉を自分で投げかけていました。
今から思えば、自分で自分にカウンセリングをする「セルフカウンセリング療法」でしたね。
ただ、そこからしばらくして職場の環境も改善されて自分の精神状態が落ち着きだすと、ピタリと「書きたい衝動」も止まってしまいました。
書きたいと思うネタはたくさんあるし、書けないこともない。
それでも、「書こう」と思い立ってパソコンの前に座ってキーボードを叩く所まで体がすんなりと動かなかったんですよね。
先程書いた「心のデフレスパイラル」からは抜け出し、仕事でも
職場の人間関係があまり気にならなくなる
→普段通りの仕事のパフォーマンスが発揮できるようになる
→周囲からの信頼を回復し、職場での承認欲求も満たされる
→自分に自信が持てるようになり、自己肯定感が高まる
→仕事にもさらに身が入るようになる
・・・
という好循環が自分の中に見られるようになりました。
これはこれで、かつての「心理的欠乏状態」から抜け出して心理的に健康になり、もちろん身体のコンディションも良くなりましたから、私としても良かったなと思っています。
ただ。
心と体のバランスが取れるにしたがって、「何が何でも吐き出したい」という言葉が反比例的に減少したようにも思いました。
ある意味、心理的な危機状態を脱するための心理的本能に従って生み出されていた言葉が無くなったので、それに伴って「自分を言葉で表現したい」という衝動も低下したのだと思います。
その途端に、ブログの更新も止めてしまいました。
ホント、極端な人間ですよね笑。
ブログを立ち上げてわずか1か月のことでしたが、この経験は自身への気づきにとどまらず、色々な方向での洞察を深めてくれるきっかけになったように思います。
そのことについてはまた日を改めて書いていきます。
今日はこの辺で。